深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第10話)

11.邪馬台国のその後 ―大和王権と熊襲―

 魏志倭人伝には、卑弥呼の最後が次のように書かれている。
      「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩狥葬者奴碑百餘人」。
意味は、卑弥呼は死んで、直径が百歩あまりの墓をつくり、奴隷(どれい)など百人を殉葬した、である。その後の邪馬台国は、魏と冊封関係を維持しながら暫くは続き、終焉は413年頃とされている。その後の5~6世紀にはどうなったのか、大和王権国家との関係はなかったのか、全く不明である。
 しかし、邪馬台国時代の3世紀以降に起こったことではないかと思われる故事や神話がある。たとえば、神武東征(じんむとうせい)、ヤマトタケルの熊襲征伐、出雲の国譲り、ヤマタノオロチ退治、草薙の剣、海彦山彦、磐井の乱などである。また、記紀(古事記や日本書紀)には明記はされていない銅鐸文化圏王国の突然消滅という史実もこの頃のことである。
 もっと重要な史実もある。あの吉野ケ里遺跡の終焉である。集落形成は、紀元前4世紀頃からはじまり、3世紀の終わりには環濠(かんごう)も土砂に埋まり、古墳時代の始めには畿内の前方後円墳まで作られ、お墓になってしまうのである。また、時代は下がって、大和王権になってからの「隼人の反乱」や「磐井の乱」もあるが、これは比較的、明白な史実である。神話のたぐいは、まさしく権力者が伝え残したたとえ話であるが、これら故事や神話の中に、卑弥呼の死後の邪馬台国の変遷や熊襲のその後が隠されていると考え、邪馬台国のその後を推考してみることにした。

1)神武東征と熊襲国

 読者諸氏は「天孫降臨(てんそんこうりん)」という文言に聞き覚えがあるだろう。これは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫(天孫)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大神の命令を受けて地上世界を治めるために、神々が住む天上から九州の日向熊襲の国にある高千穂峯へ天降(あまくだ)ったことをいう。

霧島神宮
図34.瓊瓊杵尊を祭神として祀る霧島神宮 (写真提供:種村康富氏)

 高千穂峯の麓には図34に示すような霧島神宮があり、主祭神としてニニギノミコトが祀(まつ)られている。「天降った」は現在では「天下った」であるが、地域外から渡来してきて、または侵入してきて支配者となった、の意味である。ニニギノミコトが高天原(たかまがはら)から高千穂の峯に降り立ったということは、天皇家の祖先が海の外から九州へやってきたことを比喩的に表したものである。まさか、大和王朝の正史に「天皇家の祖先は中国大陸から船に乗ってやってきた渡来人」とは書けなかったからである。それでも編者の良心があり、真実を含ませた神話形式の記述となっているのが記紀(古事記と日本書紀)ではないかと筆者は考える。
ここの記述で大切なことは、この「襲(そ)」とは「襲國(そのくに)」「熊襲国(くまそこく)」である。また、この天孫降臨の話は、ニニギノミコトのひ孫にあたる神武天皇が日向を発って東征に向かったという神話につながっている。つまり、ニニギノミコトが大和王権国家樹立の先駆けであったということになる。襲國が熊襲国であるならば、後の初代神武天皇は熊襲系の出自(しゅつじ人の生まれのこと)となるわけである。

 神武東征とは、初代天皇とされる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)、同じ読み方であるが、『日本書紀』では「神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)」とあり、神武天皇のことである。何のための東征かというと、古事記には、「よりよく国を治めるために東へ行く」とあり、日本書紀には、「東には美しい国があり、そこに行って都をつくる」とある。実際は、従わぬ勢力を武力で制圧し、統一国をつくる、というのが目的のはずである。事実、神武勢力は日向を発ち、各地の豪族を従属させ、大和を征服して橿原宮、現在の橿原神宮あたりで即位している。時期は3世紀末~4世紀初め、卑弥呼が死んだ後の時期であり、その後の邪馬台国がどうなったのか気になる時期の伝説である。

 まず不思議なことは、出発地がなぜ日向なのかである。福岡県の朝倉や八女には「日向」という地名があるから、宮崎の日向ではなく福岡県ではないかとの説もある。天孫降臨の地が日向の高千穂の峯であり、神武天皇はニニギノミコトの曾孫(ひまご)だから、日向が出発地となったというわけであろうが、これも納得はいかない。神武勢力は九州を平定した勢力であり、瀬戸内の豪族を制圧・従属させ、大和を制した強国だったはずである。そのような強国が日向にあったのだろうか。これまで示した九州における弥生時代の遺跡・遺物の地域別出土分布図(第3話の図9第5話の図13~図16)から分かるように、日向(宮崎)地方の遺跡数は九州の県別では最少であり、そのような強力王国が存在した証はないのである。

 出発地が宮崎県(日向)ではないとしても、卑弥呼が死んだ邪馬台国のあとの3世紀末から4世紀初め頃、東征に向かうことの出来るような強国が九州に存在したことは明らかである。その国は、どのような王国なのか。当時、邪馬台国と敵対関係にあった国といえば狗奴(クナ)国である。魏志倭人伝(第1話の図2左端)には次のようにある。
      「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王・・」
この意味は、「女王の国の南に狗奴国があり、男子を王としている。その官を狗古智卑狗(クコチヒク)といい、女王に属していない・・」である。

 古事記には、天孫(アマテラスの孫)の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の命令を受けて国を治めるために、高天原から九州の日向のの高千穂峯へ天降(あまくだ)った、とあり、日本書紀にも、日向のの高千穂峯へ天降った、と書いてある。この「襲(そ)」は、前にも述べたが、「襲國」「熊襲国」であり、魏志倭人伝の「狗奴国」である。
ニニギノミコトは初代の熊襲国王であり、勢力を拡大して九州南部の覇者となり、九州北部の邪馬台国と権力抗争をしていたと考えることができる。邪馬台国が熊襲国との戦いに敗れたか勝ったかであるが、この勝敗は「ヤマトタケルの熊襲征伐」という神話で明らかである。つまり、狗奴国、即ち熊襲国が勝って生き残り、後の世の大和政権には属さない抵抗勢力となっていたことが征伐の理由となったからである。ただ、そのころの大和地方に、邪馬台国を負かした熊襲国のような強国を成敗するほどの大国が存在したのかである。
そこで気になるのが神武東征ルートである。つまり、神武軍は、東征に向かうのに周防灘を北上せず、なぜ、わざわざ難所の関門海峡を西行し、北九州の岡田宮に向かったのであろうか。それは、まだ成敗すべき勢力が北九州にいたということに他ならない。生き残りというか、朝鮮半島政権と結託した新たな勢力が北九州あたりにいたのではないかということが想像できる。

 さて、さきほどのニニギノミコトが日向の高千穂峯に天降ったという記述は、古事記にも日本書紀にも書いてあり信憑性(しんぴょうせい)は高い。特に日本書紀には日向の「襲」の高千穂とある。高千穂峯は、現在の区分では宮崎県、日向の地の山であるが、「峯」は山の頂上ではなく、「麓地域」との指摘を考慮すると、地理的には多くの弥生遺跡が集積する霧島、曽於、志布志あたりがそれに該当する。先に、弥生時代遺跡が少ない宮崎県に大きな王国があったことは想定出来ないと書いたが、これらの地域であれば納得ができる。

 襲国の勢力は、北上して熊本平野を統治するほどの大国になった。これは、弥生時代の鉄器類出土数が九州最多であることからも想定できる。阿蘇地方にも多くの弥生遺跡がある。この地の統治者は阿蘇氏(あそうじ)であった。阿蘇氏の祖先であり、阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神武天皇の孫にあたり、西海地方を制圧し、肥国(ひのくに:熊本県など)も制した。この勢力も神武東征の重要構成員ではなかったかと思われる。
それでは、熊襲征伐をした大和政権は誰かということになる。このことは、また別項のアナザーストーリーで語ることにするが、熊襲征伐の話は、多分、別時代におきた逆賊征伐のことを皇祖の正当性や権威保持の観点から作られた神話であろう。そうであれば、神話をもとに推考できるのかということであるが、現代の通説では、ニニギノミコトの曾孫が神武天皇とされているから、神話の中では皇祖歴史の悠久性と歴代天皇の在位期間の妥当性を図るため、何代も古くしてあると思えばいいわけである。神話に限らず、いつの時代も、権力者の意図が見え隠れする歌や歌詞もある。また脇道にそれるが、約76年前の話である。

 筆者が幼少の頃、「♪・・・紀元は弐千六百年 あゝ一億の胸はなる」という詞の歌「紀元弐千六百年」があった。この歌は、皇室の悠久の繁栄や戦意高揚を目指した軍歌であり、戦時中まで盛んに歌わされた。神武天皇の即位は、日本書紀によれば紀元前660年、現在は2020年であるから、皇室の歴史は2680年となる。さすがに今、神社庁以外、このようなことを言う人はいなくなったが、この「紀元弐千六百年」という歌は昭和15年、神武天皇即位2600年(皇紀2600年)を祝う国民歌として作られたものである。このように、神武天皇による東征が如何に日本の根幹になっている史実であるかを示した歌であることは間違いない。

 神武軍の東征は、古事記では、九州北部で1年間、現在の広島では7年、岡山では8年間(日本書紀では3年間)、留まったことになっている。これは、広島の安芸や岡山の吉備地方に大勢力集団がいて抵抗勢力との戦いが容易ではなかったことを暗示している。この瀬戸内地方にも多くの王国があったことは第13話で示す弥生時代の遺跡資料からも予想できる。東征軍は、いよいよ浪速之渡(なにわのわたり)にはいり、生駒山を越えようとするが、地元豪族の強力武闘集団であった長隋彦(ながすねひこ)に阻まれる。仕方なく紀伊半島を回って熊野から、やっと大和にたどり着くという話になっている。神武軍は再度の戦いをすることになるのであるが、神話で有名な三本の足の八咫烏(やたがらす)や金色の鵄(とび)、「金鵄(きんし)」の加勢によって長隋彦軍を圧倒し、八十梟帥(やそたける)勢力に勝利して支配地を手に入れた。このような史実は後述する「国譲り」神話の形で記録されている。

 記紀には、邪馬台国のこと、倭の五王のこと、銅鐸のことなどは書かれていない。この神武東征神話ではっきりしていることは、初代天皇の先々代が九州への渡来人であることである。ニニギノミコトが日向の襲國の高千穂峯に天下ったという記述は、域外から移住して渡来人であることを意味する。純潔の倭人(日本人)ではなく異邦の渡来人であること、神武天皇はニニギノミコトの曾孫(ひまご)であること、大和ではなく九州であることなどが、その後の畿内大和政権にとっては皇祖の尊厳性という観点から、その隠蔽(いんぺい)を記紀や神話に託したと考えられる。ということは、記紀が編纂されたころの大和王朝は神武系ではなくなっていた可能性がある。

 このことを暗示している出来事が5~6世紀の大和王朝で起きている。それは、皇祖アマテラスを王宮の祭壇から取り除くという所業で、第10代の崇神(すじん)天皇の時代に始まり、第11代の垂仁(すいにん)天皇に引き継がれている。つまり、このころの大和政権は、狗奴国または熊襲国系の神武天皇系ではない政権に代わっていたことが分かる。アマテラスが鎮座場所を探して各地を巡行する話は、後述のアナザーストーリー(3)で詳しくのべる。

クマソ大王
クマソ大王
<つづく>   
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